コーヒーノミキクイムシ(Hypothenemus hampei)は、コーヒーの実に穴を開けて種子を食害する害虫で、2020年の総説は、世界で最も被害の大きいコーヒーの害虫としている[2]。国際コーヒー機関(ICO)が2009年に開いたセミナーの議長要約は、コーヒー部門の経済的損失を年約5億ドル、2008年に生産国がコーヒーから得た輸出収入の3%超に相当すると推定している[1]。体が小さく実の中に潜って暮らすため防除が難しく[1]、東アフリカでは、以前は報告の無かった標高1,500mを超える農園でも加害が報告されるようになった[3]。
- コーヒーノミキクイムシは実の内部に潜み種子を食害し、世界で最も被害の大きい害虫とされる。
- 被害額は年約5億ドル、ケニアの被害率は0.7〜7.8%から80%まで変動した記録がある。
- 被害額や被害率を見る際は、出所・年次・基準(輸出収入比か絶対額か)を確かめると読み違いを防げる。
この記事は「コーヒー豆を知る完全ガイド|産地・品種・精製・焙煎でわかる味の地図」の各論です。
コーヒーノミキクイムシとは何か
実の内部に侵入し、種子の中で暮らす昆虫
この虫の最大の特徴は、成虫の雌が実(果肉に包まれた種子)に穴を開けて内部に入り込み、種子の中に坑道を作って産卵する点にある[2]。侵入先は生豆になる部分そのもので、ここに幼虫が育つ空間ができる。実の表面に開いた小さな穴だけが、外から見える被害の痕跡になる。
産卵から成虫まで
雌は種子の中に作った坑道で、11〜40日の産卵期間に100個を超える卵を産む[2]。卵から成虫までにかかる期間は主に気温と実の水分で決まり、気温が高いほど、また実の水分が少ないほど短くなるとされる[2]。
見えない場所にいるゆえの防除の難しさ
ICOの2009年のセミナー議長要約は、この虫は体が小さく隠れた暮らし方をするため、防除がとくに難しいとまとめている[1]。農薬や生物的防除の対象になり得るのは実の表面や周辺環境にとどまり、いったん種子内部に入り込んだ個体には外側からの処置が届きにくい。この「実の中に潜る」という一点が、後述するIPM(総合的病害虫管理)の考え方の出発点になっている。
種子内部という閉じた空間で幼虫期を過ごせる点は、この虫が農薬の接触・浸透に対して物理的に守られていることを意味する。防除の議論が「殺虫剤の強化」ではなく耕種的対策(実の早期収穫や落果の除去など)に重心を置きやすいのは、この構造上の制約が背景にある。
「年5億ドル」の被害額、その出典を読み解く
見出しにもある「年5億ドル」という数字は、複数の文献で見かけるが、出所と条件を区別しないまま引用すると実態とずれる。以下、出所ごとに条件を分けて確認する。
ICO(2009)の概算:2008年輸出収入の3%超
最初の出所は、ICOが2009年3月に開催したコーヒーノミキクイムシに関するセミナーの議長要約である。議長要約は結論の第1項で、コーヒー部門の経済的損失は年約5億ドルと推定され、2008年に生産国がコーヒーから得た輸出収入の3%超に相当するとしている[1]。この数字は2009年3月の文書に示された推定であり、2008年という特定の年の輸出収入と比べた額である点が条件として付く。
Johnson等(2020)が引用する「年5億ドル超」
もう一つの出所は、Johnsonらによる2020年の総説(Insects誌)である。この論文は序論で、コーヒーノミキクイムシを世界で最も被害の大きいコーヒーの害虫とし、収量と品質の両方に影響して年5億ドルを超える被害をもたらすと書いている[2]。この額に付された文献は、コーヒーノミキクイムシのWolbachia(共生細菌)感染を扱った2002年の論文(Vegaら)で、推計の方法や基準年は総説の本文からは読み取れない[2]。ICOの概算と同じ水準の額が11年後の論文に現れても、それだけで再推計された値とは言えず、独立した2つの推計が一致したものとして数えることもできない。
数字を足し合わせて新しい世界値を作らない
ICOの概算とJohnsonらの記述は、どちらも年5億ドル前後という同じ水準の額である。これらを合算したり、年次をまたいで足し引きしたりして新しい世界の推計を作る根拠はない。数字を見るときは「誰が」「いつの数字を」「何を基準に(輸出収入との比率か、絶対額か)」示したものかを、そのつど確認する必要がある。
| 出典 | 発表年 | 示された数値 | 基準・対象 |
|---|---|---|---|
| ICOセミナー議長要約[1] | 2009 | 年約5億ドル、2008年の生産国のコーヒー輸出収入の3%超 | コーヒー部門の経済的損失の推定 |
| Johnson et al.[2] | 2020 | 年5億ドル超(付された文献はVegaら2002) | 世界で最も被害の大きい害虫の説明の中で、年間の被害額として提示 |
ICOの年約5億ドルは、2008年の輸出収入を物差しにした2009年の推定であり、その後の生産量やコーヒー価格の変動を反映して計算し直した値ではない。2020年の総説に同じ水準の額が出てきても、付された文献は2002年の論文なので、新しい推計として読むことはできない。
被害率は指標で変わる:ケニアの半世紀
被害額のような金額の話とは別に、実際の被害の大きさを示す指標として「被害果率(実がどれだけ虫に侵されたか)」がある。ケニアの事例は、この指標が長期でどう変化したかを示す数少ない記録である。
1928年の初報告、0.7〜7.8%
ケニア・コーヒー研究財団の報告によると、ケニアでコーヒーノミキクイムシが最初に報告されたのは1928年で、その時点の被害(infestation)は0.7〜7.8%と低かったとされる[5]。
1987年までに最盛期で被害80%
同じ資料によれば、その後この害虫は主要な問題へと拡大し、1987年までにはコーヒーの最盛期(収穫が集中する時期)に被害水準・減収が80%にまで達したと報告されている[5]。同じ論文は、この間にこの害虫が主要な害虫になったと書いている[5]。
被害果率と減収率は別の指標
ここで注意したいのは、「被害果率(何%の実が虫に侵されているか)」と「収穫量そのものの減少率」は、同じ言葉で語られがちだが本来別の指標だという点である。Johnsonらの総説が引くインドネシアの推計では、国全体の平均の被害(infestation)が20%(範囲10〜50%)だったのに対し、国全体の減収は約10%とされており、同じ国でも指標によって値が倍違う[2]。ケニアの1987年の「80%」という数字も、資料の記述では被害水準と作物損失(crop loss)が並記されており[5]、どちらの意味で使われているかを常に確認したうえで引用する必要がある。
- 被害果率:収穫対象の実のうち、虫に侵された実の割合
- 減収率(作物損失):本来得られるはずだった収穫量に対する減少の割合
総合的病害虫管理(IPM)の実績と限界
コーヒーノミキクイムシへの対策として国際的に推奨されてきたのが、IPM(Integrated Pest Management、総合的病害虫管理)である。ICOのセミナー議長要約は、耕種的・化学的・生物的防除を組み合わせるIPMを、この害虫の害を抑える好ましい方法としている[1]。
耕種的・化学的・生物的防除を組み合わせる考え方
議長要約は、各地ですでに広まっている方法として、耕種的防除(手摘み、落ちた実の除去、摘み取り用マットの使用)、化学的防除(作物保護剤の使用。健康と安全の面から疑問視されることが増えている)、生物的防除(天敵の利用、寄生蜂の放飼、菌類の利用、誘引剤を使った捕獲)を挙げている[1]。コロンビアでは、通常の樹の手入れに組み込みやすい耕種的防除に重点が置かれたと、ICOとCFCの事業の評価報告は書いている[4]。
コロンビアでは総費用の6%、グアテマラの実例
ICOとCFC(Common Fund for Commodities)の事業CFC/ICO/02について2009年10月にまとめられた評価報告は、コロンビアではIPMの費用が総費用の6%と見積もられ、手頃な水準だとしている[4]。同じ報告はグアテマラの例として、2〜3つの対策要素を組み合わせた場合のIPMコストを1ヘクタール当たり295ケツァル(米ドルで35.80ドルに相当)と示している[4]。この金額はグアテマラという特定の国・特定の対策構成に紐づく数字であり、他の産地にそのまま当てはめられるものではない。
価格が通常以上なら収益性を高める
同じ評価報告は、コロンビアについて、コーヒー価格が通常かそれより高い水準にあれば、量と質の両方の改善を通じてIPMが収益性を高めるとしている[4]。一方で同じ報告は、2004年まで続いた価格危機の期間には、コロンビアでもほかの国でも防除の費用(固定費と変動費)を収入でまかなえなかったとも書いている[4]。
- 耕種的対策:収穫や剪定などの栽培管理に組み込む方法
- 化学的対策:薬剤による防除(具体的な薬剤・散布方法には触れない)
- 生物的対策:天敵や微生物などを利用する方法
総費用の6%はコロンビアの見積もり、1ヘクタール当たり295ケツァルはグアテマラの見積もりで、国も物差しも違う。評価報告が6%を手頃としながら、価格危機の期間には防除の費用を収入でまかなえなかったとも書いている点からは、同じ費用でも価格の水準によって負担の重さが変わることが読み取れる[4]。
温暖化で高地へ登る害虫
コーヒーノミキクイムシに関する近年の論点の一つが、気候変動との関係である。この節では、東アフリカを対象にした一つの研究が示した内容にとどめて紹介する。
標高1,500mを超える加害は約10年前まで報告が無かった
icipe(国際昆虫生理生態学センター)らの研究者による2011年の論文(PLoS ONE)は、約10年前までは標高1,500mを超えるコーヒー農園でコーヒーノミキクイムシが加害しているという報告は無かったと書いている[3]。同論文は、この標高が、栽培されるアラビカ種の好む標高域(1,400〜1,600m)と自生するアラビカ種の好む標高域(1,200〜2,000m)の範囲内にあることも添えている[3]。以前は報告の無かった標高でも加害が見られるようになった、という変化の記録である。
低地と高地で年間世代数が変わる
同じ論文は、CLIMEXというモデルを使い、個体群が増える下限の温度を上回る積算温度だけから、年間の世代数(1年間に何世代を繰り返すか)を見積もっている[3]。現在の気候での計算上の世代数は、ウガンダのカネフォラ(ロブスタ)産地の10から、東アフリカ各国の高地のアラビカ産地の2まで幅がある[3]。
将来シナリオでの世代数増加はモデル計算にとどまる
同じ研究は、用いた2つの気候変動シナリオのどちらでも、2050年までに東アフリカのコーヒー産地での年間の世代数が、標高の高い地域(1,400〜1,800m)で5〜10、低〜中標高の地域(900〜1,300m)で11〜16に増えると計算している[3]。この予測はあくまで特定の気候シナリオと地域設定の下での計算上の数値であり、実際の将来の発生状況を保証するものではない。コーヒー産地そのものの適地がどう変化するかという、より広い気候変動の議論については、産地の将来像を扱う別の記事に譲る。
約10年前まで高地での報告が無かったという記述は、あくまでその研究が確認できた範囲での観測史であり、それ以前に高地で発生していなかったことを完全に証明するものではない。将来の世代数増加も、気候シナリオの設定次第で数値が変わるモデル上の計算値である点を踏まえて読む必要がある。
結論:飲む側にとってのコーヒーノミキクイムシ
ここまで見てきたように、コーヒーノミキクイムシの被害は、金額(ICOの年5億ドルという概算[1])と発生率(ケニアの0.7〜7.8%から80%への変化[5])という異なる指標で語られ、それぞれに年次・地域・定義の条件が付く。飲む側の立場からこの虫が関わってくる場面は、実は日常の一杯に近いところにもある。虫に食われた豆は、生豆の選別工程で取り除かれる欠点豆の一因になるためだ。虫食い豆をどう見分け、どう扱うかという実務的な話は、生豆の欠点豆を見分ける記事で扱われている。
コーヒーノミキクイムシは、実の内部という手が届きにくい場所で生活環を完結させる点で防除が難しく、その被害額・被害率は資料ごとに前提が異なるまま流通しやすい害虫である。数字を見るときに「誰が、いつ、何を基準にした値か」を確認する姿勢は、この虫に限らずコーヒーの「産地」カテゴリで扱われる統計全般に対しても有効な読み方になる。次にコーヒーノミキクイムシという名前を見かけたときは、その数字がどの年・どの地域・どの指標を指しているのかを、一度立ち止まって確認してみるとよい。
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参考文献
- ICO Seminar on the Coffee Berry Borer (17 March 2009): Summary report by the Chairman(ICC 102-5)
https://www.ico.org/documents/icc-102-5e-seminar-cbb.pdf - Coffee Berry Borer (Hypothenemus hampei), a Global Pest of Coffee: Perspectives from Historical and Recent Invasions, and Future Priorities
https://doi.org/10.3390/insects11120882 - Some Like It Hot: The Influence and Implications of Climate Change on Coffee Berry Borer (Hypothenemus hampei) and Coffee Production in East Africa
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0024528 - Impact Evaluation Report: Integrated Management of the Coffee Berry Borer, Project CFC/ICO/02
http://dev.ico.org/project_pdfs/CBB_ICO02.pdf - The Coffee berry borer, Hypothenemus hampei Ferrari (Coleoptera: Scolytidae) in Eastern Africa region: the extent of spread, damage and management systems
http://dev.ico.org/event_pdfs/cbb/presentations/Kimenia Mugo CBB- ICO Paper.pdf
